小島剛夕のこと





◇幼少期◇
幼少の頃から絵が好きで、余白さえあればところかまわず絵を描いていた。 近所に住む老画家から日本画(水墨画)の手ほどきを受ける。 小学校の頃コンクールで「相撲」を題材とした絵を描き賞をとる。 その絵はすでに迫力に満ちた劇画調だったという。 
◇青年期◇
看板屋として映画館の看板を描き続けた。 そのときに数多くの映画を鑑賞し、のちの作品に大きな影響を与えた。 やがて手塚治虫の『宝島』に感銘を受け、漫画家を目指す決意をする。 漫画作品を投稿し採用してくれた出版社を訪ねて上京したのは昭和25年(22歳)のことである。
◇上京後◇
あてにしていた出版社に逃げられ、知人を頼って紙芝居の絵を描く仕事に着く。 やがて雑誌社から声がかかり、少年誌に絵物語を掲載する。 絵物語の登場人物は映画スターの顔に似せてあった。 映画の看板を描いていた経験が役立ったに違いない。 少年誌に作品を描き続けていた頃、貸本を発行しているひばり書房から声がかかる。 
◇貸本時代◇
ひばり書房で長編漫画の単行本デビューを果たす。 当時ひばり書房は「怪談・オール怪談」などのアンソロジー漫画本で売っていた。 そこで中・短編の読切りを掲載していくうちに『長篇大ロマン』と銘打った剛夕一人からなる貸本が生まれる。 歴史や歌舞伎などを題材とする古典ものを多く手掛け、その美しい絵柄と流麗な文章で女性ファンの心をつかみ、貸本界における人気を不動のものとした。 剛夕自身は「血と刀のリアリズム」を好み、骨太の剣豪ものを手掛けたかったようであるが、この『長篇大ロマン』なくして「時代劇画の巨匠・小島剛夕」は生まれえなかったと思っている。
◇赤目プロと小島剛夕◇
白土三平に請われ『サスケ(第二部)』、『カムイ伝』の作画に協力する。 よく白土三平のアシスタントをしていたという表現を見かけるが、あくまでも対等な立場での参加である。 『カムイ伝』は構想段階から関わりを持ち、その壮大なスケールに大変な意欲を燃やして作画に協力したという。
◇青年雑誌〜そして子連れ狼◇
貸本の衰退期と前後して活躍の場を青年誌に移す。 コミックmagazine、漫画アクション、ヤングコミック、漫画ゴラク、と次々と作品を発表した。 特に昭和43年に発表した作品の質と量は他者の追随を許さない。 とにかく絵を描きたかった剛夕は原作と劇画の分業を模索。 このことが不朽の名作『子連れ狼』の原作者小池一夫(一雄)との出会いを生む。 以降、作品のほとんどが原作付となる。(リスト参照)
<ご遺族、関係者の方のお話をもとに主観も交えて略歴としてまとめものです。 文中、敬称は略させていただきました。 >