剣豪の影像・

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斎藤伝鬼坊(さいとうでんきぼう)

天文19年(1550)、常陸井手村に生まれる。 幼年より塚原卜伝の側にあって、頭角をあらわすが、卜伝に疎んじられ、己れの剣を求めて旅に出る。 研鑽のすえ、開創したのが電撃必殺の天流。 天正12年の春、紫宸殿の庭前で妙剣を天覧に供し、左衛門尉に任じられる。 それを機に薙髪し、故郷に帰って道場を開くが、天正15年(1587)、真壁闇夜軒道無によって暗殺される。 38歳であった。
伊藤一刀斎(いとういっとうさい)

永禄3年(1560)、伊豆大島に生まれる。 14歳の時、島を出奔して伊豆の山に籠る。 3年間、刺戟の術を独学自習したのち、江戸へ出て鐘捲自斎に富田流を学ぶ。 24歳の時、極意を悟り、一刀流を開創する。 生涯の試合は33回。 いずれも勝をおさめている。 のちに開眼した夢想剣は、不世出の聖剣を物語る。 高弟には小野次郎右衛門忠明がいる。 承応2年(1653)、94歳の高齢で歿している。
小野次郎右衛門(おのじろうえもん)

前名を神子上典膳という。 永禄9年(1566)、上総は夷隅郡神子上村に生まれる。 11歳のとき、伊藤一刀斎について諸国を遍歴する。 18歳のとき、兄弟子の小野善鬼と相伝試合をして勝ち、一刀流の後嗣者となる。 文禄2年(1593)、一刀斎の推挙で徳川家康に仕え、柳生但馬守宗矩と共に、嗣子秀忠の師範となる。 これを機に小野次郎右衛門忠明と改名する。 寛永5年11月7日、62歳で歿す。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)

元亀2年(1571)、柳生石舟斎の五男として生まれる。 24歳のとき、徳川家康の側近に仕え、小野次郎右衛門と共に、嗣子秀忠の師範となる。 その後、政治的手腕を発揮して、小野次郎右衛門を圧倒し、将軍師範役の座を独占する。 剣で一万石の大名になったのは、この人ぐらいであろう。 柳生十兵衛は嫡子であるが、弟の宗冬が宗矩のあとを継いでいる。 正保3年3月26日、76歳で歿す。
宮本武蔵(みやもとむさし)

天正12年(1584)、美作は讃甘郡宮本村に生まれる。 父の平田無二斎に兵法を学び、13歳のとき、新当流の有馬喜兵衛を倒して、天稟の片鱗を見せる。 他流試合は66度に及ぶが、船島で佐々木小次郎を倒したのは29歳のとき。 以後、他流試合を慎しみ、剣法の理論に打ち込む。 そして二刀流による見切りの術を極め、二天一流と命名する。 正保2年(1645)、62歳で歿す。 著作に「五輪書」がある。
佐々木小次郎(ささきこじろう)

文禄元年(1594)、越前は一乗谷淨教寺村に生まれる。 ここには富田勢源の道統が敷衍されており、いつしか中條流を学ぶようになる。 しかし小太刀の兵法に疑問を抱き、故郷を出奔して諸国を遊歴する。 研鑽のすえ、開創したのが、虎切刀の巌流である。 飛燕を斬る・・・・・・つまり太刀ゆきの速さが、その極意となっている。 慶長17年4月13日、船島で宮本武蔵との試合に敗れて死す。 享年18歳。
諸岡一羽斎(もろおかいちは/いっぱさい)

天文元年(1532)、常陸は江戸崎に生まれる。 姓の諸岡は師岡が正しい。 もと美濃の土岐家四天王のひとつであった師岡氏の末である。 早くから剣術に長じ、塚原卜伝とめぐりあって新当流を会得する。 そして研鑽のすえ、一羽流を開創する。 高弟に岩間小熊之助、根岸兎角之助、土子泥之助らがいる。 土岐家が没落後、信夫郡に隠棲するが、文禄2年9月8日、癩に犯されて歿す。 享年61歳。
丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)

天文9年(1540)、肥後は八代郡人吉に生まれる。 幼時から剣を修行し、19歳のとき、上泉信綱の門に入る。 永禄10年(1567)、信綱より殺人刀太刀、活人剣太刀の免許を下付される。 これを機に相良家に仕えるが、間もなく諸国遊歴の旅に出る。 帰郷後、主家に帰参して117石を得るが、信綱の死去と同時に、新陰流をタイ捨流に改め、21流の奥義を極める。 寛永6年5月7日、90歳で歿す。
富田重政(とみたしげまさ)

永禄7年(1564)、山崎影邦の子として生まれる。 12歳のとき、前田利家の近侍となるが、間もなく富田左衛門景政の養子となる。 景政の祖、富田長家は、中條流から富田流を開創した人である。 従って重政も養父よりその極意を伝授されるが、合戦の中にのみ剣技を生かす。 名人越後の剣聖としてその名も高いが、どちらかといえば名将の方が適している。 寛永2年(1625)、62歳で歿す。