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松林左馬之助(まつばやしさまのすけ)
文禄2年(1593)、信州は松代に生まれる。 夢想権之助に夢想願流を学ぶが、やがて諸国修行の旅に出る。 そして研鑽のすえ、自得して願立流をうちたてる。 間もなく伊奈家の臣となり、大いに剣名をあげるが、51歳のとき、仙台候伊達忠宗に招かれて采地30貫文を賜る。 慶安4年3月25日、将軍家光に実技兵法20ヵ條を台覧に供し、寛文7年2月1日、75歳で歿している。 号は蝙也斎(へんやさい)。 |
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木村助九郎(きむらすけくろう)
天正12年(1580)、大和国は邑地村に生まれる。 柳生但馬守宗矩に柳生流を学び、天稟のほどを示す。 はじめ、駿河大納言忠長に仕えるが、間もなく600石をもって紀州徳川頼宣に召し抱えられる。 小太刀をよくし、紀州藩に仕えるに際して、柳生流を名乗るのを憚り、匿名(かくしな)の運籌(うんちゅう)流を称す。 のちに同門の出淵平兵衛盛次に運籌流二代を託し、慶安3年4月8日、70歳をもって病死する。 |
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深尾角馬重義(ふかおかくましげよし)
寛永7年(1630)の生まれ。 前名を河田喜六というが、家督相続後、深尾姓を名乗る。 父の河田理右衛門に丹石流を学ぶが、間もなく諸派を学んで、戦場剣術の丹石流を素肌剣術に改める。 これを雖井蛙(せいあ)流と称す。 天和2年10月27日、娘のことから百姓3人を殺害して、大目付の役宅で切腹する。 52歳であった。 別に化顕流、安心流の居合二流を発明し、また出雲流骨法の祖でもあった。 |
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山内甚五兵衛(やまうちじんごべえ)
慶長16年(1611)、備前岡山に生まれる。 新陰流ほか諸流を学んだのち、多賀伯庵聚律の門に入り、富田流を伝授される。 熊沢了介、僧白巌らと交遊を重ねたのち、京にのぼって修行に励む。 そして研鑽のすえ、剣名品目を富田流の規定に従い、簡約して6ヵ條とし、平常無敵流と称す。 一時、板倉重矩の徒士となるが、小田原に去って妙福寺の住職となる。 延宝元年8月15日、62歳で歿す。 |
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愛洲伊香(あいすいこう)
伊勢国渡会郡南島あたりで生まれた。 『念流伝書』によると、念阿彌慈恩(相馬四郎義元)から秘奥を授かったうちの一人、猿神前の末孫が愛洲伊香となっている。 長享2年(1488)、鵜戸の岩屋に籠り、陰流を開眼した。 殺戮剣から活人剣への求道であった。 36歳のときである。 後年、新陰流の祖となった上泉信綱は、伊香の高弟である。 天文7年(1538)、87歳の高齢で歿している。 |
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富田勢源(とみたせいげん)
越前国宇坂庄一乗淨教寺村に生まれ、中條流の道統を継いで短剣術を極める。 長大な剣と撃ち合い、それにうち勝つこそ、真の武芸者なり・・・・・・これが勢源の信條である。 永禄3年(1560)、美濃国において、神道流の梅津某との試合で三尺五寸の大太刀を、一尺二寸の小太刀でうちまかした。 佐々木小次郎は孫弟子に当たるが、道統に反して大太刀で巌流を興したのは、皮肉といえよう。 |
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塚原卜伝(つかはらぼくでん)
常州塚原の人で、延徳2年(1490)の生まれ。 飯篠長威斎の天真正伝神道流を、父の塚原新左衛門高安から伝授され、研鑽のすえ、鹿島七流の第一人者となるが、28歳のとき御笠山に籠って、万剣も帰すれば只ひとつの太刀なり・・・・・・の理を悟り、いわゆる新当流を編み出す。 門弟は数多いが、北畠具教と松岡兵庫助が代表にあげられる。 元亀2年(1571)、81歳の高齢で歿している。 |
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上泉信綱(かみいずみのぶつな)
永正5年(1508)、上州大胡の城主・上泉憲綱の嫡子として生まれる。 武将としても勝れていたが、伊勢守となった22歳のとき、愛洲伊香より陰流の極意を伝授され、己れの剣を見出す。 称して新陰流。 秘伝は、飛燕、山陰、月影、松風など。 この体系は現在の剣道の基盤となっている。 高弟は数多いが、中でも柳生新陰流の祖となった柳生宗厳が有名。 天正5年(1577)に歿している。 |
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疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)
天文5年(1536)、加賀は石川郡に生まれる。 母は上泉信綱の姉というから、信綱の甥にあたる。 神後伊豆守宗治と共に信綱の側にあって、修行に励み、新陰流を会得する。 研鑽のすえ、疋田陰流を開創するが、32歳のとき織田信忠に、53歳のとき豊臣関白秀次に、それぞれ剣術を指南する。 のちに田辺城主の細川幽斎に仕えるが、慶長10年(1605)、69歳で歿す。 筆録に『回国記』がある。 |