剣豪の影像・

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斎藤弥九郎(さいとうやくろう)

寛政10年(1798)、越中は永見郡仏生寺村に生まれる。 農民の出身で、江戸にのぼって岡田十松吉利に師事し、研鑽のすえ、斎藤派無念流を開創する。 そして爼橋(九段坂下)に道場(練兵館)をひらいたのは、文政10年(1827)、29歳のときであった。 桂小五郎、渡辺昇、高杉晋作らが、その系譜に名をつらねている。 字は忠郷、号は篤心斎という。 明治4年10月24日、74歳で歿している。
桃井春蔵直正(もものいしゅんぞうなおまさ)

文政8年(1825)の生まれ。 前名を田中勘助という。 17歳のとき、鏡心明智流三代の桃井春蔵直雄の養子となり、24歳のとき、皆伝を受けて四代となる。 千葉周作、斎藤弥九郎、伊庭軍兵衛と並んで江戸四大道場といわれた。 慶応2年(1866)、遊撃隊頭取並に転出し、やがて大阪玉造臨時講武所に出仕して、剣術師範役並となる。 のちに神官や陵掌をつとめるが、明治18年、60歳で歿す。
白井亨義謙(しらいとおるよしかね)

天明3年(1783)の生まれ。 8歳のとき、機迅流の依田新八郎に師事するが、14歳のとき、中西子啓の門に入り、一刀流を学ぶ。 その傍、同門の先輩・寺田五郎右衛門に組太刀を教わる。 22歳のとき、中国を武者修行し、6年後に江戸へ戻り、改めて寺田五郎右衛門に師礼を執る。 5年間、厳格な教法に従い、文化12年8月15日、天真伝の印可を受け、天真一刀流の二代となる。 天保末年に歿す。
榊原鍵吉(さかきばらけんきち)

文政12年(1829)の生まれ。 13歳のとき、男谷精一郎の門に入り、直心影流を学ぶ。 24歳のとき、免許を受け、講武所の剣術教授方に任命される。 やがて第14代の将軍家茂の御前で、自得院流の高橋謙三郎と優劣を競い、それに勝って将軍師範役のひとりとなる。 その後、明治天皇を迎えて行われた兜割りで成功を収める。 明治27年9月11日歿す。  
河田佐久馬景与(かわたさくまかげとも)

文政11年(1828)、鳥取藩は河田介景の子として生まれる。 はじめ家伝の一刀流を極めていたが、間もなく香取に足を踏み入れ、飯篠修理亮貞盛について香取神刀流を学ぶ。 帰郷の後、更に研鑽して一刀流河田派を開創する。 その後、武場を養心洞と称して、子弟の教育に力を入れる。 明治4年7月に断行された廃藩置県を受けて、初代鳥取県権令となり、明治11年には元老院議官に就任。 明治20年には子爵を授けられ、華族に列した。 明治30年10月12日歿す。
沖田総司(おきたそうし)

天保14年(1843)、奥州白川藩の浪人の子として生まれる。 9歳のとき、近藤周助邦武の内弟子になり、天然理心流を学ぶ。 まもなく近藤勇が天然理心流の4代を継承するが、その師範代となる。 文久3年、新選組が結成されると、その助勤となり、池田屋の斬り込みなどに天稟の剣を見せる。 その後、鳥羽伏見の戦いなどに参加するが、明治元年5月30日、労咳を病み、25歳で歿す。
渡辺昇(わたなべのぼる)

天保9年(1838)、九州に生まれる。 16歳のとき、江戸にのぼり、斎藤弥九郎善道の練兵館に入門し、神道無念流を学ぶ。 ときどき近藤勇の試衛館から招かれて助勢し、大いに剣名をあげる。 25歳のとき、塾頭になるが、やがて革命運動に挺身する。 そしてかつての親友である近藤勇の新選組から命を狙われるが、それをかいくぐり、維新後は明治新政府に出仕して、大阪府知事となる。
山田次朗吉(やまだじろきち)

文久3年(1863)、千葉県君津郡富岡村の名主の子として生まれる。 虚弱体質をもてあましていた18歳のとき、村営の強兵館道場で榊原謙吉とめぐりあい、剣技に身震いするほど魅せられ、その門弟となる。 激しい修行に克ち、31歳のとき、直新影流15代を継承し、伝書9巻を譲られる。 その後、東大剣道部の師範などを勤めるが、昭和5年1月9日、68歳で歿す。 著作に『日本剣道史』がある。
根岸信五郎音善(ねぎししんごろうおとよし)

天保14年(1843)の生まれ。 越後長岡藩主牧野駿河守の家老牧野図書の弟で、町奉行の根岸氏の養子となる。 文久2年、江戸にのぼり、斎藤弥九郎竜善の門に入って、神道無念流を学び、22歳のとき、免許を得る。 維新後、警視庁、宮内省などの師範を勤めるが、明治12年、遊心流を開創して神田に道場を持つ。 のちに武徳会剣道範士となるが、大正2年9月15日、70歳で歿す。 中山博道は高弟。