剣豪の影像・1

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柳生宗厳(やぎゅうむねよし)

大永7年(1527)、大和柳生村に生まれる。 はじめ、中條流と新当流を極めていたが、永禄6年(1563)、上泉信綱に新陰流を学び、一国唯授一人の奥伝を得る。 文禄3年(1594)、徳川家康に招聘され、師範役に命じられるが、子息の又右衛門宗矩にその任を譲る。 活人剣から更に研鑽し、無刀取りの術を編み出した功績は大きい。 号は石舟斎。 慶長11年(1606)、80歳の高齢で歿している。
覚禅房法印胤栄(かくぜんぼうほういんいんえい)

中御門の出で、代々、興福寺の衆徒(宗徒?)の家柄である。 柳生宗厳と共に、上泉信綱について刀術を学び、槍法を大膳大夫盛忠から伝授される。 そして柳生宗厳、穴沢盛秀、五坪兵庫らの助力を受けて、宝蔵院流槍術表9本、真位6本、あわせて15本の式目を制定する。 のちに由比正雪の乱に加わった丸橋忠弥は、宝蔵院流の一玄流を極めていた。 慶長12年8月26日、87歳で歿している。
柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゅうべえみつよし)

慶長12年(1607)、柳生但馬守宗矩の嫡子として生まれる。 13歳のとき、徳川家光の小姓となるが、21歳のとき、非行を咎められて柳生谷の故郷に帰る。 寛永15年(1638)、再び御書院番として出仕するが、政治的手腕を必要とする将軍家師範役に嫌悪を覚え、やがて知行地の柳生谷に引退する。 慶安3年3月21日、鷹狩りの最中に急死する。 享年44歳。 著作に『新陰流月見の秘伝』がある。
荒木又右衛門保知(あらきまたえもんやすとも)

慶長3年(1598)、伊賀は服部郷の荒木村に生まれる。 幼名を丑之助という。 服部平左衛門から中條流、山田幸兵衛から神道流を教えられる。 21歳のとき、柳生谷に足を踏み入れ、柳生十兵衛三厳の門人となる。 そして12年間に亘って柳生流を学び、研鑽のすえ、荒木流を開創する。 のちに大和郡山藩の松平下総守に仕え、剣術師範として250石を得るが、寛永15年8月28日、41歳で歿す。
伊庭是水軒秀明(いばぜすいけんひであき)

慶安元年(1648)の生まれ、はじめ柳生流を極めていたが、のちに志賀十郎兵衛如見斎に本心流を学び、皆伝の後、心形刀流を編み出す。 天和2年(1682)、34歳のときであった。 この流では、本心を練るのを第一とする。 つまり、心は理、技は形であって、形は心が使役するものだから、術より遠くにある心法(本心)を、見きわめるのが肝要というもの。 正徳3年(1713)、65歳で歿している。
針ヶ谷夕雲(はりがやせきうん)

上野国針ヶ谷の出身といわれているが、上州には針ヶ谷の地名が見当たらない。 慶長14年(1609)の生まれ。 奥山休賀斎の門人で、40歳ごろまでは、師から習った新陰流の伝を守っていたが、虚白和尚に参禅してからは、師伝の流儀を捨て、本然受用の一法、つまり無住心剣流を開創する。 勝理は人性天理に安坐する……これが極意となっている。 寛文9年(1669)、60歳で歿している。
小田切一雲(おだぎりいちうん)

寛永6年(1629)の生まれ。 はじめ長谷川恕庵といって、半井驢庵塾の学頭であったが、28歳のとき、針ヶ谷夕雲に師事し、無住心剣流を極める。 この流では、相抜けをもって皆伝とする。 つまり、術が極限に達して、師と互角に対峙でき得れば、印可を授与されるというもの。 一雲がこの印可を得たのは34歳のとき。 宝永3年4月26日、77歳で歿す。 学者出の剣客として注目を浴びた。
寺田五郎右衛門(てらだごろうえもん)

寛保3年(1743)の生まれ。 はじめ一刀流の中西子定に師事したが、15歳のとき、中西門を去り、平常無敵流の池田八左衛門成について、12年間修業し、谷神伝の秘奥を免許される。 27歳のとき、再び中西門に戻り、主に組太刀を研鑽する。 のちに白隠禅師の高足である東嶺和尚に参禅大悟し、天真一刀流を開創する。 民政にも力量を見せた高崎藩士。 文政8年8月1日、82歳で歿す。
平山行蔵(ひらやまこうぞう)

宝暦8年(1758)の生まれ。 運籌流三代の山田茂兵衛松斎に師事し、研鑽ののち、運籌流四代を継ぎ、忠孝真貫流の流名を立てる。 極意は『剣術は敵を殺伐することなり』とあり、稽古も素面、素小手でわたりあい、五体をもって踏み込んで、一刀必殺の意気を養う。 61歳までは土間に臥して、夜具を用いなかったという奇人であったが、中風にかかり、文政11年12月24日、70歳で歿す。